リチャード・ラド氏 ”観照のアートのより深い部分について、もう少し洞察を共有したいと思います。”
”その最初のレベルは、ポージング(立ち止まること)と呼ばれるテクニックで、2番目のテクニックは
ピボッティング(転換が起こること)と呼ばれ、3番目はマージング(融合すること)と呼ばれます。
最初のテクニックは、心と関係があります。ポージングは、心にスペースを与えます。2番目のテクニックは、感情にスペースを与え、感情が突破口を開くことができるようにします。
つまり、心からの洞察があり、そして感情がブレークスルーを起こし、最後に、身体的な融合があり、それがエピファニー(顕現)につながります。
エピファニー(顕現)という言葉があります。それは身体に関するものです。顕現は細胞の爆発であり、細胞の変容です。
私たちが自分のパターンや人生における課題を理解するもう 1 つの方法は、「許す」、「受け入れる」、「抱擁する」ことです。
「許す」が最初の層で、「受け入れる」が 2 番目の層です。ここでは、深い核心的な作業が体の細胞で行われます。「抱擁する」は 3 番目の層です。
瞑想の実践から真実が浮かび上がるには時間がかかり、実際に身体に降りてくるのにも時間がかかります。
真実が浮かび上がると、それは啓示として、細胞から、人によってさまざまな方法で現れます。涙として現れることもありますし、真実が強く押し寄せてくることもあります。喜びや笑いが爆発するような形で現れることもあります。
それは、体に波紋のように広がるものです。このように、『融合』は美しい体験です。非常に神秘的です。
私たちは、瞑想がより高い状態へと道を譲ります。瞑想はその後、より神秘的な状態へと移行し、私たちの身体は松果体と下垂体を通してホルモンを分泌し始め、より深い知恵の状態にアクセスできるようになります。
ですから、瞑想のより高いレベルに達すると、私たちはこれらの、より高次の状態に入ります。それは私たちを肉体から連れ出すのではなく、私たちの体の奥深く、私たちのいのちの中で起こります。
それはリズミカルにやって来ます。それは無限の展開であり、無限の融合です。そして私たちはフィールドの奥深くの、時間と空間を超えた、さまざまな次元に融合していきます。
そしてそれは、花びらのように開き続けます。瞑想が導く開放は無限です。終わりがないことを理解することが重要です。
それは絶え間ない目覚めの、爆発的な旅なのです。それは私たちを内側から外側へと開き続けます。
そしてしばらくすると、瞑想はテクニック以上のものになり、習慣になります。つまり、私たちが誰であるかの習慣になります。それは、私たちの本質に深く根ざしているものです。
その意味でそれは、神秘的になります。なぜなら、突然、私たちはテクニックをやらなくなり、ほとんどテクニックが私たちをやっているという、一種の逆転が起こるからです。
そして、そこで心が本当に開き始め、私たちを、ここにいながらにして、向こう側へ連れて行ってくれるのです。
この『融合』を説明するのは難しいです。
例えば、古代人がアヒンサーと呼ぶ資質が生まれます。アヒンサーとは「無害」を意味します。言い換えれば、それは私たちが発する無害の放射です。
私たちの存在を通して非常に多くの真実が放たれています。そして衝動として他のすべてを凌駕する唯一のものは、人々を愛し、すべてのものに奉仕したいということです。
何も傷つけないというこの無害の本質が私たちを通して生まれます。そして、それは心の純粋さであり、すべての生き物、すべてのもの、すべての人、すべての存在、そして心の闇の状態でさえも、その本質を見ています。
『融合する』ことで、心の闇の周波数の状態でさえ、悪と腐敗の中にさえも、そこに光を見始めるのです。
そして、私たちは革命のゲームを離れて、この広い世界に入り始めます。そこでは、すべてが光に向かって動いているのがわかります。たとえ暗い段階の中にあっても。
そのような段階では私たちはとても至福に浸っています。この段階に付随するもう 1 つのことは、ユーモアです。ユーモアは、ゲームから抜け出すことから生まれます。つまり、これはゲームであり、ドラマであると気づくことです。
しかし、苦しんでいる人々への共感が少しも失われることはありません。実際、ユーモアはそれを包み込みます。ユーモアは表現する必要はありません。
それは、たとえ厳しい場面でも、人生を軽く受け止めることを可能にする認識です。ユーモアは、私たちが人生に身を任せて、より深いレベルへと全てを手放すことを可能にします。
そして、そのユーモアもまた素晴らしいのです。それは、ある意味では、神性のようなものだからです。
何かを理解していると思っても、実際には理解していない、という瞬間があります。それはまるで、常に蒸発しているようなもので、すべての知識が、空虚さ、つまり偉大な神秘によって蒸発しているのです。
偉大な教師は、いつもあなたを驚かせます。先日、誰かがイエスの話をしてくれました。イエスが復活した後の、復活の強烈さについての話で、その後、イエスは戻ってきて、初めて弟子たちの前に現れました。そして、彼が最初に言ったことは、「何か食べ物はありますか?」でした笑
それは理解を超えた瞬間ですが、真実と真実の素晴らしさ、そしてそれが、予期せぬ場所に隠されていることを洞察させてくれる瞬間のようです。
それが『融合』によって私たちに与えられるものです。私たちの存在の中の、この大きな開放によって、予期せぬことがいつでもどんな形でも現れる可能性が生まれます。
融合の雰囲気を味わっていただければと思います。そして、それはポージングへと戻ります。私たちが取るすべての小休止は、より大きな融合への招待であり、可能性です。
そして、それらはごくわずかな瞬間である可能性があります。私たちの融合はごくわずかなことかもしれません。
今朝、私は日の出を見に出かけました。そして、私がそこで美しい日の出を眺めていたとき、振り向くと、地面に小さな美しい野生のユリが1本ありました。
それは、あの美しい三日月形、つまり膣のような形をしていました。そして、その中には、小さな雄しべがありました。それは本当に男根のような形で、太陽の方を向いていました。
私は、この生き物と、それがどのように形作られ、成長したかに魅了されました。そして、私は、何時間もそれを見つめていました。何時間ものように思えました。
その時私は、”それ”が”私”であり、”私”が”それ”であることに気付きました。
そこには、別の形の私がいたのです。
私たちの瞑想は、私たちを最も予期せぬ小さな場所に連れて行きます。時には、何か神秘的なものが突然開き、私たちはそれが自分自身であることに気づき、自然や人生、そして私たちの人生における出来事とどんどん深く融合し始めます。
それは本当に、最高の教えです。本当に、瞑想のアートです。
ただ探求し続けてください。それはあなたの人生の中心であり、最も重要なものになる可能性があります。そうなることを願っています。